トーマス・セドラチェク著村井章子訳
善と悪の経済学 東洋経済
私たちはすでに満たされている。そのことに気がつかなければならない。あまりに豊かになり強くもなった現代人には、もはや外から限界を押し付けられることはない。ほとんどどんなことも克服し、ずっと好きなことをやってきた。これほど好き勝手にやっていながら、それほど幸福でないとすれば悲しいことである。
CSTIで策定中の第5期科学技術基本計画には人類の進歩、科学技術の発展が我が国の発展の原動力であり、未来を切り開くという、明確な「進歩」という概念がある。進歩という概念はいつ誕生したのであろうか?そして「善」は果たして報われるのであろうか?そして、そもそも「進歩」は人類に何をもたらすのだろうか?現代の経済学は果たして真髄をついているのだろうか?トーマス・セドラチェクはこれらの答えに迫る。
それは5000年前に書かれた人類最古の文学作品であるギルガメッシュ叙事詩に経済的思考の最初の痕跡を発見する試みから始まる。
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ギルガメッシシュよ、あなたはどこまでさまよい行くのです。あなたの求める永遠の命はみつかることがないでしょうーーー
昼も夜もあなたは楽しむがよい
日ごと饗宴を開きなさい
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ギルガメッシュ叙事詩からは、都市の建設とともに、分業と富の蓄積が始まったこと、聖なる自然が単なる資源の供給元になったこと、人間の利己的な自我が解き放たれたこと、ーーーそして、文明以前の人は自然に依存していたが、文明開花が進むと、当人は自立したつもりでも、実は他人に依存するようになったこと、などが見て取れる。さらには旧約聖書、プラトン、アリストテレス、キリスト教、デカルト、マンデビル、スミス、ケインズへ、歴史を知ることにより、今支配的なものの見方を影から免れ、一時的な流行を見抜き、冷静に一歩下がって全体像を捉えるという考えのもとに、歴史の流れにそって7つの時代に立ち止まり、以下の7つの切り口から論じている。強欲、進歩の概念、善悪、市場の見えざる手、アニマルスピリット、メタ数学、真理の探究である。
全編に流れる基本は、自然と文明のトレードオフである。知識の獲得と自然との共生のトレードオフである。ギルガメッシュ叙事詩で動物から人間になったエンキドウは、理性を獲得するのと引き換えに動物性を失った。アダムとイブは、知恵の木の実と引き換えにエデンの園(自然)との共生を失った。ギリシャ神話のプロメテウスがもたらした神の知識と引き換えに喜びだった労働は苦痛になった。———人間は、自然にしていることが不自然で、不自然でいることが自然な動物となった。———人間がエデンの園で最初に所有したものは衣服だった。寒かったからではない。性器を隠すためであった。すなわち人類最初の財産は物理的には不必要なものであり、心理的、道徳的な恥の感覚からだった。———この自然な不自然さ、この自然との不調和が、今日に至るまで、経済学の中心である。そして人間は今や必要なものがなんであるかわからず、必要なものを教えてほし欲望に常に苛まれる。それは際限のない欲望である。広告は人間に必要なものの情報を提供し、さらなる欲望を掻き立てる。
善悪に関しても興味ある解析をしている。歴史上の思想を「善は報われる」、すなわち善は効用を伴うということをどれだけ強く主張しているかの度合いを「善悪軸」として順番に並べている。善と効用を完全に切り離しているカントから始まり、ストア派→キリスト教→ヘブライ思想→功利主義→エピクロス派→現代主流派経済学→私悪は公益と主張したマンデビルである。この中から現代主流派経済学は、効用追求に走り、単なる言語でしかない数学至上主義になり、神話の時代から経済学がテーマとしていた倫理や道徳を忘れてしまっていると批判する。愛や慈悲心を失い、ひたすら肉を食い再生産に邁進する魂を失った肉体であるゾンビと同じである。今の経済学は市場で値段がつくものを追いかける一方で、友情、子供の笑顔、綺麗な空気など値段の付与できない価値を忘れている。ここに重大な欠陥がある。
成長資本主義の危うさを、ビール2杯を3人が如何に分配するかの例で示している。3杯目のビールがあれば、すなわち成長があれば円満解決である。しかし成長がなければ?そこには、経済と哲学などとの複雑な関係が存在する。哲学(権利とは)、倫理学(公平性とは)、社会科学(社会的地位と権利)、心理学(如何に行動するか)。3杯目のビールのマジックが経済成長を推し進めることにより哲学的、倫理的な問題は傍に追いやることができる。かくして債務までして果てしない成長を求める「成長神話」にはまり込む。破綻寸前の政府債務に目を瞑る。崖ぷちにいるものはいつかその崖が崩れ落ちることを覚悟しなければならない。経済危機が起こるのは経済が我々に安息日を要求していると考えるべきであろう。債務危機はただの経済危機とは性質が異なる。私たちはすでに満たされている。そのことに気がつかなければならない。あまりに豊かになり強くもなった現代人には、もはや外から限界を押し付けられることはない。ほとんどどんなことも克服し、ずっと好きなことをやってきた。これほど好き勝手にやっていながら、それほど幸福でないとすれば悲しいことである。
進歩/成長という概念、あるいは成長という概念は昔はなかったという記述に「ハット」なる。少なくともギルガメッシュ叙事詩では、季節が、1日が繰り返すように物語が循環している。そこには進歩や成長という概念はない。進歩という概念は旧約聖書により、ユダヤ人が時間を線と捉えたときに人類に現れる。そして、人間が自然と決別した時に、それと引き換えに限りない欲望を獲得した。例えば「原罪」は過剰消費と捉えることが可能である。そして今の経済学は進歩/成長なくして未来はないと説く。現代はこの「成長神話」に脅迫されている社会かもしれない。ーーー歴史、哲学、心理学、神話が交錯しながら話は進んで行く。経済学の進む道は?人類の進む道は?———著者はこれらに明確な答えを出しているわけではないが、最後に以下のように述べているのが印象的であった。
人類の歴史を振り返り、人間はより単純なことを受け入れて人生を楽しむ方向に進まなければならない。———野生は過去に英雄伝や映画の中に、あるいは遠いジャングルだけに存在するのではない。私たちの中にある。
単なる現在の主流派経済学への批判書ではない。人間とは、人生とはを今一度考えさせる興味が尽きない一冊である。